通算第175回(2011年5月号)

 「公サ連まつり」で大河ドラマのテーマ曲を演奏することになった「お江」についてざっと見ておきましょう。

随時講座:合奏中の話題から(その22)

 歴史上の女性には多いのですが、特にこの「お江」という人は、業績のわりに人物像が判らない代表格です。そもそも名前がハッキリしません。確実なのは「崇源院」ですが、これは死後に贈られた名前です。「小督(こごう or おごう)」「江(ごう)」「江与(えよ)」などの名前が知られていますが、「江与」は「江戸に与えた(=嫁がせた)」という意味だという説があり、「江」は「江与」を単に短くしただけとも言われています。大河ドラマでは「近江」から「江」と名付けたということにしていましたが、これもまた古くから唱えられている説です。要するに、本当のところはよく判らないのです。とりあえず、以下では大河ドラマに従って「お江」と呼んでおきます。

 お江のことを一言で説明するなら「3代将軍家光の母親(生母)」でしょう。しかし、家光の養育は乳母の春日局(かすがのつぼね)に任されました。そして春日局と対立し、手元で養育した次男の忠長を盛り立てようとしたのですが、最終的には家光が将軍になり、忠長は改易から切腹へと追込まれてしまいます。

 「2代将軍秀忠の正室」としては姉さん女房で、夫は恐妻家だったと一般に言われています。秀忠には4男5女があったとされていますが、うち2男5女の母親がお江で、当時としては異常なほど側室の子が少ないのです。徳川将軍15代で生母が先代将軍の正室なのは家光だけです。ちなみに秀忠の長女が豊臣秀頼の正室になった千姫で、五女の和子は後水尾天皇に入内しています。

 お江自身は三姉妹の末っ子で、長姉が豊臣秀頼の生母お茶々(淀の方)です。大阪の陣では徳川と豊臣を代表して対立する立場になりました。そこで、当時既に未亡人だった次姉のお初(常高院)が、姉妹の立場と自らが尼姿であることを利用して、和睦交渉の仲介役になったという史実があります。大河ドラマで描かれている姉妹の生活風景は、当然ながら、この史実を誘導するための伏線として設定されています。



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