都道府県名の由来について

 日本の47都道府県の名には、県庁所在地名と一致するものが29(1都2府26県)一致しないものが18(1道17県)あります。 この違いはどこからきたのか考えてみましょう。 (改訂を重ねた結果、長くなってしまったので、最後に「まとめ」をつけました。)

本来、県名は「県庁所在地名」である

 現在でも、「○○県」と言った場合に県庁のことを指すのか県域のことを指すのかが曖昧ですね。 「○○県からのお知らせです」と言えば県庁のことですし、「この峠を越えると○○県です」と言えば県域のことです。

 実は「○○県」は「県庁」のことを指すのが本来の用法であり、しかも「○○に所在する県庁」という意味です。 従って、県域としての「○○県」という言い方は、本来は「○○に所在する県庁の管轄地域」の略に過ぎません。 現在では、この地域名を単に「○○」と略して、例えば「関ケ原を抜けて岐阜から滋賀に入った」などと表現しますが、語源に遡って考えれば「変な表現」ということになるんですね。

 この用法は明治維新直後まで遡ることができます。 明治政府は、成立直後から、旧幕府領などの直轄地を管轄する地方組織の整備を進め、当初は「○○裁判所」などというのもあったのですが、次第に「○○県」に統一されてきました。 また、各大名の領地統治機構を「○○藩」と呼ぶ呼び方を正式なものとし、廃藩置県直後の県名は、この藩名をそのまま踏襲しています。 いずれにしても「○○」の部分は管轄する地方組織(役所)が所在する都市(小藩の場合は村)や城あるいは郡の名前を使い、管轄地域全体を示す地名は用いないのが原則です。 というか、藩や当時の県の管轄地域は、飛び地が広範囲に散っていて全体を示す地名など存在し得ない状態になっているのが多数でした。

 時代劇などで「伊達藩」「長州藩」「島津藩/薩摩藩」などと呼びますが、明治政府の立場からすれば「仙台藩」「萩藩(のち山口藩)」「鹿児島藩」と呼ぶべきだということになります。 とはいえ、元々江戸時代の間は「○○藩」という呼称自体が正式なものでは無かったので、大した問題では無いのですが……

管轄地域名を名乗った事例

 実は初期(廃藩置県以前)には例外的に管轄地域全体を示す広域地名を名乗った事例がありました。 そのうち3例(「佐渡県」「飛騨県」「甲斐府」)は、版籍奉還以前の直轄地(つまり旧幕府領)が「連続した広域」だった事例です。 いずれも、遅くとも廃藩置県直後の統合までに、都市名に基づく県名(「相川県」「高山県」「甲府県」)に改称しています。

 特に「甲斐府」から「甲府県」への改称が「府から県へ」の変更に連動して行われているのは、当時は「府」が「県」よりも明らかに格の高いものであったことが意識されていた可能性があります。 元々「甲斐府」は「府中県」「市川県」「石和県」の3県に分割されていたのを1つにまとめる形で設置されたもので、広い地域を管轄する権限の強い役所という意味で「府」になり、同じ理由で広域地名を名乗ったと考えられます。 その感覚があったため、県に格下げになってもなお「甲斐」を名乗るのは変だと考えられたのでしょう。

 以上とは同時期の別の事例として「越後府」というのがあります。 これは管轄地域が越後全体ではなかったり、途中で「新潟府」に改称したと思ったら、その後「新潟府」と並存する形で復活したりするなど、経緯が複雑で性格も不詳です。 どうやら戊辰戦争の現地指令部がそのまま民政拠点に移行したというという特殊事情もあったようです。 「越後府」は、後に県に格下げになったときに「水原県」に改称しており、「甲斐府」から「甲府県」への改称と同様の考え方に基づく可能性が高いと考えられます。

 また、「河内県」「摂津県」「三河県」というのも存在しました。 いずれも比較的狭い範囲に多数点在していた直轄地(主に旧旗本領)を管轄していた県です。 特に「河内」「摂津」については、比較的面積の狭い国であったことが、このような命名をする背景にあったかもしれません。 なお、後に「摂津県」は「豊崎県」に改称され、「河内県」「三河県」は各々「堺県」「伊那県」に編入されています。

 直轄地が多数点在していたのは関東も同様ですが、「武蔵知県事」が3人も居て、どの役所も「武蔵県」を名乗れなかったようです。 同時期に「常陸」「下総」「上総安房」にも「知県事」が居て役所は「県」を名乗っていません。 これには、旧幕府勢力の抵抗が強く1ヶ所に落ち着いて役場を運営できなかったということもあるようです。 後に、「武蔵知県事」の3つの役所は「大宮県(のち浦和県)」「小菅県」「品川県」になり、他の3つの「知県事」の役所は「若森県」「葛飾県」「宮谷県」になっています。 なお、この時期に広域地名でない「真岡知県事」という事例がありますが、これは早々に移転して「日光県」になったため、「真岡県」を名乗る機会が無かっただけという可能性が高そうです。

 同時期に「度会府」というのも存在しました。 これは元々が「山田奉行」なので、現場が早合点して「山田府」を名乗ってしまったという事件もあったらしいのですが、結局は管轄地域全体を示す命名になっています。 「度会府」は県への格下げ時にそのまま「度会県」になっていますが、これは「度会」が国名ではなく郡名だったことによると思われます。

 以上は廃藩置県以前に設置された府県の事例ですが、それ以後にも管轄地域全体を象徴する地名を雅称的に名乗った事例があります。 ただ、これは伊予という土地の文化的風土を背景とした例外的な事例と考えるべきでしょう。

隣接地名等を名乗った事例

 県名が県庁所在地ではなく隣の都市名などである事例もあります。 廃藩置県直後の府県一斉統合以後では、5例ほど認められます。 いずれも、後に市町村合併や改称で矛盾が解消されています(最も遅い事例でも1901(明治34)年)が、命名時点では県庁所在地名ではありませんでした。

神奈川府(のち神奈川県)

 どうやら安政条約(5ヶ国との修好通商条約)にまで遡る事情があるようです。 条約では「神奈川」を開港することになっていたのですが、東海道の宿場町である神奈川では人通りが多く、攘夷運動も盛んな中で治安が保てないということで、街道から離れた隣の横浜村を開港することにしました。 このときに「横浜は神奈川の一部」と強弁したという経緯があり、それと矛盾させないために、横浜の府庁(のち県庁)が「神奈川」を名乗らねばならなかったということのようです。

木更津県

 元々、藩政拠点と港町が隣接はしているが別の行政区画という構造の街だったようです。 県庁は藩政拠点であった貝淵の陣屋に置かれたのですが、県名には港町を採用したようです。

七尾県

 元々「七尾城」の城下町であったものの、町としての正式な名称は「所口」でした。 ただ、「七尾」も町の通称として通っていたようです。 1872(明治5)年に「七尾」を名乗ることで統一したらしいのですが、同じ時期に石川県に編入されています。

岐阜県

 有名な岐阜城は江戸時代には城として機能していませんでした。 城跡の周辺は尾張徳川家(いわゆる「尾張藩」)の領地で「岐阜奉行」の管轄でした。 城跡の山麓には長良川の港町である「岐阜町」が存在しましたが、「岐阜奉行」は周辺の村も含めて管轄しており、奉行所も「今泉村」にありました。 この奉行所跡への立地を予定していた県庁が、奉行名を引継いで「岐阜県」を名乗ったようです。

浜田県

 県庁を「浜田」の領域内ではなく隣の「浅井村」に置いたものの、「浜田」の町の目前だったので、そのまま「浜田県」を名乗ったようです。

県庁が「あるべき場所」を名乗った事例

 県名の原則は「県庁所在地名」ですが、「県庁があるべき場所」が現に県庁がある場所とは違うことを宣言するために、その「あるべき場所」を県名にした場合もあるようです。

 例えば、埼玉県庁は当初から浦和にありますが、浦和は埼玉郡ではなく、足立郡です。 これは、浦和の県庁舎は臨時庁舎と認識されていて、いずれ埼玉郡の岩槻に正式庁舎を移す予定だったことによるようです。 2001年5月に浦和が大宮・与野と合併して「さいたま市」になり、読みだけは「県庁所在地名と県名が一致する」形になりましたが、本来の「埼玉」という地名とは無関係な場所に「さいたま市」ができるというイビツさを伴う結果になってしまいました。 敢えて県名と表記を変えたのも、この問題を多少は意識してのことだと思われます。 ちなみに、2005年4月に岩槻市がさいたま市に併合され、変な形でイビツさが部分的に解消される結果になっています。

 あるいは、1872(明治5)年2月27日に「長浜県」が「犬上県」に改称しているのですが、県庁は逆に2月16日に犬上郡彦根から長浜へ移転しています(5月には彦根へ戻っている)。 詳しいことはよくわからないのですが、長浜と彦根は近隣同志でステータスシンボルの取り合いを頻繁に演じている間柄ですから、この時も県庁の取り合いをしていたことが想像されます。 ちなみに、9月に「犬上県」が「滋賀県」に併合され、近隣同志で取り合いをしている場合では無くなりました。

 群馬県も前橋ではなく高崎の所属郡が由来です。 前橋と高崎で県庁の取り合い(1881(明治14)年まで)をした揚げ句、前橋が実(県庁)を取り、高崎が名(所属郡名を県名にする)を取ることで決着したという事情があったようです。

 実はこの話、前橋が「実質的には勢多郡だが名目上は群馬郡」というややこしい状況にあったので、話が複雑です。 元々、勢多郡と群馬郡の境界は利根川で、前橋は利根川の右岸(西岸)にありました。 ところが、1539(天文8)年と1543(天文12)年の洪水で利根川の流路が変わって前橋の西側を流れるようになり、前橋周辺は群馬郡の一部が利根川の左岸(東岸)に孤立した地域になったわけです。 近世の間ずっとこの状態だったわけですから、前橋周辺は元々からの利根川左岸地域である勢多郡と実質的に一体の地域になって明治維新を迎えます。

 明治政府は、版籍奉還や廃藩置県のあと試行錯誤しながら地方行政組織を整えていきます。 1878(明治11)年の「郡区町村編制法」で、それまで(=律令に基づく「郡司」の実質的機能が失われて以来)単なる「地名」だった「郡」に「郡役所」を置いて行政の単位とすることになったのですが、このとき群馬郡のうち利根川左岸の部分を「東群馬郡」として分離し、この東群馬郡と南勢多郡(勢多郡の大部分)とを併せて1つの郡役所で管轄することにしました。 さらに1896(明治29)年に郡を地方自治体として整備する「郡制」が群馬県で施行される際に、「東群馬郡+南勢多郡」を改めて「勢多郡」としています。 ちなみに西群馬郡は南隣の片岡郡(町村制施行時に1村のみになるという狭さだった)を併合して改めて「群馬郡」になり、勢多郡の一部を分離した「北勢多郡」は北隣の利根郡に併合されています。 実態と齟齬を来していた「郡」を実態に合わせていく試行錯誤の過程ですね。

 前橋と高崎で県庁の取り合いをしていた間は、前橋は名目上は「群馬郡」か「東群馬郡」に属していたことになります。 しかしながら、コトの本質は「高崎を中心とする地域」と「前橋を中心とする地域」との間の対立です。 そして、高崎は明白に「群馬郡の中心」なのですから、「群馬県」が高崎の県庁を意味することも、当時の現地の人には明白だったわけです。 もちろん「前橋も名前の上では群馬郡なんだから」ということで双方を納得させるという意味もあったかもしれませんが。

 また、三重県は1872(明治5)年に県庁が津(安濃郡)から四日市(三重郡)へ移転する際に「安濃津県」から改称したのですが、翌年津へ戻るときには県名は改称していません。 どうやら、旧藤堂藩の影響力を弱めようとする政治的駆け引きがあったようです。

 なお、1876(明治9)年の府県大統合以前には、県庁移転に連動して県名も変更するのが原則と考えられていたようですが、それ以降は県名の変更はありません。 1884(明治17)年の栃木県庁移転時の混乱などもあったようですが、1896(明治29)年の島根郡廃止(3郡統合して八束郡創設)や1901(明治34)年の神奈川町吸収合併など県名の根拠となる地名が消失する事態に際して、県名変更は行われていないのです。 このころには、県の版図や名称は「既に定着しているもの」と考えられるようになっていたのかもしれません。

郡名に由来する県名

 さて、元々「庁舎所在地に基づく」という発想で命名されていない北海道(別稿の「都道府県の違い」の解説を参照)は別として、現行県名が現県庁所在地に一致しない17県のうち、

岩手・宮城・茨城・群馬・埼玉・石川・山梨・愛知・三重・滋賀・島根・香川
の12県の県名は郡名に由来し、先に説明した3県(群馬・埼玉・三重)を除いて現県庁所在地の(県名命名当時の)所属郡名です。 また、大分と宮崎も元々は郡名に基づいて命名した県名で、後で都市名(「府内」「上別府」)を郡名に合わせて改名したものです。 (「さいたま市」もこれに近い例だと言えるかもしれません。) なお、秋田・千葉・佐賀・鹿児島も、元をたどれば郡名に由来するようですが、まず都市名を郡名に基づいて決めたと考えられるので、この4県は「郡名由来」ではなく「都市名由来」と考えるべきでしょう。 秋田は明治に入ってから郡名に基づく都市名に変え、それに連動して変えた藩名が県名に継承されています。 他の3県は明治維新よりずっと以前に都市名を郡名に基づいて決めているようです。

 現存しない県(廃藩置県直後の府県一斉統合以後)では、

磐井(一関)・置賜(米沢)・磐前(平)・新治(土浦)・印旛(佐倉)・入間(川越)・足柄(小田原)・筑摩(松本)・額田(岡崎)・度会(山田)・犬上(彦根)・飾磨(姫路)・北条(津山)・深津(福山)・三潴(久留米)
の15県(括弧内は県名の根拠となった県庁所在(含予定)都市名)が郡名起源です。 「深津県」は後に笠岡へ県庁が移転して「小田県」に改称しており、これも郡名起源です。 また、
新川(魚津のち富山)・足羽(福井)・名東(徳島)
の3県も郡名起源で、統合で一旦消滅したあと復活する際に都市名起源に戻っています。 ちなみに、「香川県」のみは復活する際に都市名起源に戻らず、郡名起源の昔の名前に戻っています。 何故そういう違いが生じたかは、よくわかりませんでした。

郡名由来県名の背景

 注目すべきは、以上32県のうち、元々が「度会府」からの格下げである「度会県」を除く31県を郡名に基づいて命名した時期が、1871(明治4)年11月から翌年6月までという短い期間に集中しているということです。 この時期は、廃藩置県直後の府県一斉統合時と、その直後の半年間にあたります。

 この中には、県庁移転に伴って改称している事例もあります。 例えば、石川県は、治安上の理由から県庁を金沢市内に置いておけず、市外の石川郡内に移転したことによっているようです。 (改称が実際の移転よりも早いという情報もあるのですが、一連の動きだったようです。) 三重県についても、やはり政情不安定による治安上の理由が絡んでいることは、上述した通りです。 また、磐井県は一関から水沢に移す予定だった県庁を結局一関へ戻したときに、犬上県は上述した通り県庁を彦根へ戻したときに、各々郡名に基づいて名乗っています。 宮崎県は、美々津県と都城県の合併に際して県庁を中間地点の上別府村に置いた際に、おそらく無名な地名だったために、郡名に基づいて名乗ったものと思われます。

 しかし、残る26県は県庁移転を伴っていません。 しかも、そのうち

岩手・磐前・宮城・愛知・足羽・滋賀・飾磨
の7県は、一斉統合当初には都市名に基づく県名だったのを、わざわざ改称しているのです。 また、同じ時期に「松山県」「宇和島県」「熊本県」が各々「石鉄県」「神山県」「白川県」という「雅称」に改称しています (「石鉄・神山」の両県は1873(明治6)年に合併して「愛媛県」となり、「白川県」は1876(明治9)年に「熊本県」に復帰)。

 府県統合の時期に改称しているということから、統合に伴って「隣町の県庁に支配されることを嫌う」という地域対立が生じることを防ぐために、都市名を強く意識させない命名とするのが目的だったという仮説も成り立ちます。 しかし、改称した34県のうち

岩手・置賜・入間・山梨・新川・名東・白川
の7県は府県一斉統合の影響がほとんど無かったということを考えると、別の要因を考える必要があるかもしれません。

 このような改称が一斉に行われた理由として、戊辰戦争の「賊軍」の土地は、明治政府の報復(あるいは賞罰)で県庁所在地名を県名にさせなかったという説があります。 確かに「賊軍の土地」で県名が県庁所在地名でない「傾向がある」ことは事実です。 しかし通常、この話は「全国的に統一された一貫性のある継続的な」方針に基づいて「報復」や「賞罰」が行われたという形で語られることが多いようです。 ここまで話を発展させてしまうと、完全に「嘘」になってしまいます。 詳しくは別のページにまとめたので参照してください。

初期の郡名起源県藩名

 なお、廃藩置県以前にも郡名起源の県名や藩名がありましたが、「度会県」以外は廃藩置県直後の府県一斉統合で無くなっています。

 最も系統的に設置されたのは、「九戸県(三戸県)」「江刺県」「胆沢県」「登米県」「桃生県」という事例です。 これは戊辰戦争の敗者である伊達家(仙台)や南部家(盛岡)から没収した直轄地を管轄する県ですが、管轄は県名になった郡以外にも及んでいます。 元々が「無理矢理に分離した土地」であり確実な中心都市が無かったために、少し広域の地名を使う方が解りやすいという判断があったのかもしれません。 また、近い将来に県庁が移転する可能性が高いと考えられていた可能性もあります。

 また、「伊那県」「天草県」という事例もあります。 伊那郡には伊那村もありますが、当時の県庁所在地ではないので、郡名起源と考えるべきでしょう。 「伊那県」は所在村名を冠した「飯島代官所(陣屋)」の跡地に置かれたので「飯島県」でも良かったと思われるのですが、なぜか郡名としています。 「天草県」もわざわざ「富岡県」から改称しています。 いずれも、理由はよく判りませんでした。

 藩名では、同名回避のために改称する際に郡名を採用した事例(「真島藩」「豊浦藩」)があります。 いずれも廃藩置県でそのまま県名となり、直後の一斉統合で無くなっています。 ちなみに「敦賀藩」「丹南藩」は、命名根拠となった都市や村が郡と同名だったと考えるべきでしょう。

郡名に由来せず、現県庁所在地名でもない県名

 現行県名が現県庁所在地に一致しない残り5県の名前は郡名ではありません。 順に見て行きましょう。

栃木県

 これは、栃木と宇都宮で県庁の取り合いをした結果のようです。 元々栃木にあった県庁を1884(明治17)年に宇都宮へ移転した際に、それに連動して県名を変更することをしなかったわけです。

 移転時にはいろいろ混乱があったようです。 原則に従って県名も当然に変更になるという考えもあったようで、「宇都宮県」と名乗った公文書まで出ているらしいのですが、結局中央政府から「県庁を移転するだけで県名は変更しない」という通達が出て、とりあえず騒ぎは落ち着いたようです。 一方に名を取らせ、他方に実を取らせるという配慮だったのかもしれません。

神奈川県・兵庫県

 いずれも、市の成立過程で県名の元になったのと異なる方の地名を採ったことによっているようです。 しかし、県名の元になった地名が市内に残り、共に後の区名に採用されました。 つまり、

神奈川県 横浜市 神奈川区
兵庫県 神戸市 兵庫区
が共に存在しているわけです。

 横浜も神戸も共に開港地で、元々はマイナーな地名だったわけです。 しかし、共に「市制」というものが始まった1989(明治22)年の段階で県庁所在地を凌駕するメジャーな地名になっていて、「横浜市」と「神戸市」が共に成立しました。 「兵庫」に関しては、この時点で既に「神戸」に包含されており、行政区画名としては存在しませんでした。 一方の「神奈川」は、初期に「神奈川府」を名乗った事情が絡むこともあり、この時点でも「神奈川町」が別に存在していました。 その後、1901(明治34)年に「神奈川町」が「横浜市」に併合され、「神奈川」という行政区画名は一旦消えています。 このため、神奈川区が1927(昭和2)年の区制の際に「合併前の町名を復活する」という意味合いで命名されているのに対し、兵庫区はそういう意味の復活ではありません。 1931(昭和6)年の区制の際に成立した「湊西区」が2年後の1933(昭和8)年に兵庫区に改称しており、改称の動機はよくわかりませんが、結果的には「明治初期以前の古い地名を復活させ」たことになります。

愛媛県

 これは、1873(明治6)年に合併で成立する時に、古地名に新しく漢字を当てて新作したようです。 合併前の2県は元々「松山県」「宇和島県」だったのですが、1872(明治5)年に各々「石鉄(せきてつ)県」「神山(じんざん)県」に改称しています。 これは、県庁所在地名ではなく県の管轄地域全体を象徴する「雅称」(管轄地域そのものを直接に指し示す地名ではない)であり、全国的にみても特異な命名です。 「愛媛県」という命名も、その流れだったようです。 1876(明治9)年の府県大統合の際に、香川県が愛媛県に編入されましたが、この命名ゆえに受け入れられるのではという判断があったかもしれません。

 ところで、明治の新作地名と言えば静岡もそうですが、こちらは都市名(「駿府」)を先に変えた後、それに合わせて県名を決めたもので、「県庁所在地名を県名にする」原則には沿っています。

沖縄県

 これは「琉球処分」の過程の結果ですから、他とは状況がかなり異なると考えられます。 まず1872(明治5)年に、それまで「琉球国」だったのを、日本の行政機構に組み込む目的で「藩」にしました。 この時点で、それまでの国名をそのまま継承して「琉球藩」と命名しており、既に藩の命名の原則を逸脱しています。 それを受けての1879(明治12)年の「沖縄県」ですから、郡より大きい地域名である「沖縄」を使うのに抵抗は無かったのでしょう。

 ちなみに「沖縄市」というのは最近の命名(コザ市・美里村の合併による)で、私が「広域地名の僭称」と呼んでいる事象の典型例です。

 なお念のため、本来「沖縄」という地名は現沖縄県全体を指すものではありません。

琉球=奄美+沖縄+大東+先島(宮古・八重山)=奄美+沖縄県
という等式で理解すれば良いでしょう。 ちなみに、奄美が鹿児島県に入っているのは、島津藩支配の時代に、琉球の他の部分と切り離されて直轄領とされていたことの名残です。

まとめ

おまけ

現存47都道府県を命名の起源で分類すると下記のようになる。

このうち、※を付した29都府県が、県名と県庁所在都市名が「結果的に一致」した事例である。

参考文献

今尾恵介「日本の地名・都市名」(日本実業出版社)
石田諭司「地理データ集/府県の変遷」 http://www.tt.rim.or.jp/~ishato/tiri/huken/huken.htm


1999年12月29日WWW公開用初稿/2012年7月17日ホスト移転/2020年2月5日最終改訂

戸田孝の雑学資料室へ戻る

Copyright © 1999,2012 by TODA, Takashi